データ説明
この4月、インターネットのサーチエンジン・ソフト会社、ヤフーの創業者ジェリー・ヤンとディビッド・ファイロは、二人の母校であるスタンフォード大学に2百万ドルを寄付した。スタンフォード大学はハイテクの集積地、シリコンバレーに人材を輩出しているだけに成功者による寄付は少なくないが、今回「恩返し」した二人は史上最年少という。
ヤンは現在28才、ファイロも30才、双方ともにスタンフォードのコンピュータ・サイエンス学科の博士課程を休学してヤフーを始めた。彼等は、在籍していた94年に趣味で始めたWWWサイトの検索サービスが、当時1日数万件もの利用者のある超人気サイトとなり、95年4月Yahoo! Corporationを設立して事業化した。会社設立前には、こうしたサーチエンジンで売上をあげる企業は存在せず、文字どおり世界初の事業であったが、大手ベンチャーキャピタル(VC)であるセコイアの支援を受け、また95年11月には日本のソフトバンクの出資を受け提携するなど、次々と提携先を広げた。そして会社設立から1年後の96年4月にNASDAQに株式を公開した。97年3月にはヒット数1日3000万件を記録している。
(図表-2ジェリー・ヤンの起業プロセス<ここをクリック>)
3.「仮想書店」: ジェフェリー・ペゾス(アマゾン・ドットコム創業者、CEO、33才)
彼は、投資銀行からベンチャーに飛び込んだ異色組である。東海岸のプリンストン大学電気工学科を卒業後、ウオールストリートのバンカーズ・トラスト等の投資銀行でヘッジ・ファンドのコンピュータ支援を担当していた。彼は、ニューヨークで勤めている間に20ものビジネス・プランを考えたが、インターネットによる書籍通信販売が最も可能性が高いと考え、94年7月に西海岸シアトルに移りアマゾン・ドットコムを設立した。アマゾンは、インターネット上の仮想書店である。世界中で数百万点もの書籍や印刷物が発行されるのとは反対に、「実像の」書店に置いてある本は少なく、入手も手間と時間がかかることに彼は目をつけた。
アマゾンでは、ウェブ・サイトで書名、著者名、コード、テーマ等で250万冊のデータベースによって検索と注文ができ、注文後数日以内に届く配送システムを作っているほか、サイト上でブックフェアやディスカウント本のセールなど、多数の催しを行っている。アマゾンは、「世界最大の書店」というキャッチフレーズで全米で人気が高まり、今年5月にIPOを実施した。
4.「インターネット広告をモニターする」: アリエル・ポラー(アイプロ創業者、30才)
彼は、ベネズエラ・カラカス生まれ。13才の時からディスコを経営していたというから経営の才も経験も、年齢以上のものがあるのだろう。大学は米国ボストンに渡りMITでコンピュータ・サイエンスを専攻した。学部卒業後、彼もジェリー・ヤンと同じように日本にやって来て清水建設で1年働いた後、ベネエズラへ帰り家業のホテルを手伝っていた。彼は、何らかのベンチャーを起こしたいと思っていたが、具体的なアイデアを持っていなかった。そこで、まずその「準備」として、92年秋からスタンフォード大学のビジネス・スクールに入学した。彼のビジネス・プランは、94年のWWWブームで具体化した。インターネット利用者の属性データを追跡し、インターネットで情報を発信する企業や広告会社にそれを提供するビジネスを考え付いたのである。94年6月にスタンフォードを卒業し、アイプロ(I/PRO、インターネット・プロファイルズ・コーポレーションが正式な社名)を設立しソフトウェアを開発しはじめた。94年12 月、サンフランシスコに本拠を置くVC、サッター・ヒル・ベンチャーズから出資を受けた。アイプロが注目されるようになったのは、インターネット広告が急激に広がったためである。インターネット広告では、94年秋に登場した「バナー」(日本語でいえば横断幕)が主流である。このバナー広告は、WWW画面に差し込まれた長方形に広告主、商品情報が載っており、利用者がバナーをクリックすると、広告主のサイトにジャンプして、利用者を彼らの世界に引きずり込むことが出来る。バナーが急拡大したのは良いが、広告の出し手にとっては、どれだけの宣伝効率を持っているのは、どのサイトに広告を打てば良いのか、はっきりした情報がない。ここにアイプロの出番があった。いわば、インターネットの視聴率調査会社、テレビでいうニールセンのような存在である。実際、96年初にアイプロはニールセンの資本参加を受けている。
(図表-3:若手起業家の経歴<ここをクリック>)
●2ラウンド目を目指すミドル起業家
米国ベンチャーの世界でも、リバイバルはすがすがしいものがある。最近、過去の失敗から立ち直り再び成功者に返り咲くケースが起こった。スティーブ・ジョブズとジェリー・カプランの復活である。米国の起業家達は一生の間に2回の挑戦ができる。もちろん自分の強い意志が必要だが。「米国には失敗を恐れない文化が営々と生き続けている」と教科書には良く書いてあるが、事実はどんなことなのか、以下でいくつかのケースをみてみよう。
5.ジム・クラーク (55才):「3匹目のドジョウを狙う」
過去十数年の米国で、2度も自分の手でベンチャーを興し2社ともIPOを大成功させた人物は、ジム・クラークだけであろう。
彼は大学教授出身の起業家として日本でも有名であるが、研究者としてはオーソドックスなキャリアを送っていない。地元テキサス州の高校を中退後、まず海軍に入った。海軍で技術者生活を送りながら自費で勉強し、ルイジアナ州立大学に進学、74年にユタ大学でコンピュータ・サイエンスの博士号を取得している。その後、まずカリフォルニア大学、ついでスタンフォード大学で準教授として教鞭を取った。彼は象牙の塔にこもる研究生活よりも、専門の3Dコンピューター・グラフィックスをビジネス化する機会をずっと待ち続けていたようである。
スタンフォード大学の同僚と、自分達が大学で開発したインターフェイス言語と半導体チップを使ったワークステーションのプランを大手メーカーに売り込んだが、関心の高い企業がなかった。そこで彼は自分の会社で作ってしまおうと決意して、同僚や大学院生6人を集め1981年シリコン・グラフィックス(SGI)を設立した。
クラークは同社の会長に就任、かつCTO(最高技術責任者)として同社の技術開発面をリードした。SGIは「ジュラシック・パーク」に代表されるハリウッド映画の特殊効果を開発するなど、ワークステーションの高級機種として世界的にブランドを獲得、早くも設立後4年でIPOを実現、現在では売上高20億ドル、従業員3700名の企業に達している。
彼がSGIを辞めたのは、具体的に次のビジネスプランが決まっていたからではない。漠然としたコンセプトのまま、94年1月に同社を退社した。その際、前述のようにマーク・アンドリーセンに運命的な電子メールを打ったことが、彼にとっての第二ラウンドのきっかけであった。
クラークがアンドリーセンに会ったわずか2ケ月余りの後(94年4月)に、アンドリーセンやNCSA(国立スーパーコンピューター応用センター)のメンバーを率いて同社を設立(当初の社名はモザイク・コミュニケーションズ)、95年8月に会社設立わずか1年4ケ月でIPOを実現、株式公開価格は28ドル、公開日に74.75ドルまで急騰したのである。現在、クラークはネットスケープの株式を1600万株(全体の約19%)保有しており、現在の株価30 ドルで計算すると、総額5億ドル近い資産を築いたことになる。
クラークは、現在3ラウンド目のベンチャーを走らせている。ネットスケープもSGIとは別のマーケットであったが、3度目もヘルスケアという両者とは異なる事業である。1996年春に、クラークのSGI時代の同僚であったパバン・ニガムが考えた医療管理とインターネット技術の融合を目指したプランを、クラークが取り上げ、クラークと日頃付き合いの深いKPCB(クライナー・パーキンス・コフィールド・バイヤーズ。大手のベンチャーキャピタル)の医療ベンチャーキャピタリスト、デイビッド・シュネルが加わり、ヘルスケープ社(現在の社名はヘルシオン)が設立された。米国の民間医療保険では、HMO(Health Management Organization)に代表されるように、企業や保険会社側が非保険者の受診や治療を指導したり制限を設けるマネッジド・ケア(市場規模は全米で年間2000億ドル)が主流であるが、その手続きに要する事務や情報提供に、WWWを主としたインターネット技術で効率化させようという試みだ。スタートアップ時点で、KPCBとクラーク自身の資金5百万ドルを投入し、現在従業員60名、またもや急成長する勢いである。
6.スコット・マクネリー(41才)「ネットワーク産業の旗手」
彼は、サン・マイクロシステムズ・グループの会長かつCOである。サンがここへ来てよみがえったのは、時流の運もあろうが、やはりリーダーである彼の力量が評価されている。つい最近まで独禁法以外向かうところ敵なしだったビル・ゲイツ(マイクロソフト)に、同社は対抗手と呼ばれる地位まで台頭してきた。
ハーバード大学経済学部卒業後、スタンフォード大学でMBAを取得した。コンピュータ業界の2社で働いた後、1982年にスタンフォード大学、UCバークレーの仲間達3名とサン・マイクロシステムズを設立した。彼は、1985年に30才にして同社のCEOになった。ワークステーションの業界は、すでにボストンに拠点を置くアポロが先んじており、後発のサンは非常に苦しかったはずだが、その後じりじりとアポロを追いあげ1987年に逆転し、1989年にヒューレット・パッカードがアポロを買収して勝負のけりがついた。
現在話題のJavaというインターネット用新言語は、1995年5月にサンが発表したものである。サンは96年1月に JavaSoftという新会社を作ったり、Java言語を多数の会社にライセンスしたり、ベンチャーキャピタルの筆頭であるKPCBとJava関連ベンチャーのみに投資する「Javaファンド」(前述のマリンバもJavaファンドの投資企業)を設立したりと、着々とネットワークの技術面、ビジネス面の土台を固めつつある。
彼は、手八丁、口八丁の猛烈人間、とにかく聞く耳はほとんど持たず、もっぱら"Send only"と言われており、彼の言動がサンの標語となっている。"The network is the computer."(同社のスローガン)。さらに、彼は同年代のビル・ゲイツに対する対抗意識を丸出しにしている。サンのホームページに彼の業績を掲載しているが、95年のトップが"Beat Bill Gates to the Internet Party."(ビル・ゲイツを叩いてインターネット業界の仲間らしい人間にした。)、 96年が"Move the Internet Party without telling Bill Gates."(インターネット業界を変える、ビルゲイツには言わないが。)、というから、攻撃的というか独断的というか、とにかくものすごい。彼の年収は現在300万ドル、同社の2.9%にあたる株式(時価で約2億ドル)を持つ。ビル・ゲイツの資産130億ドルに比べれば少ないといえようが・・・。
7.ラリー・エリソン (52才) : ”Timing is everything”
ラリー・エリソンは、リレーショナル・ベータベースのデファクトを築いたオラクル・システムズのCEOである。1944年シカゴ生まれ、イリノイ大学、シカゴ大学で学んだ後、大学を中退してシリコンバレーのコンピューター業界入りした。アンペックス、アムダールでIBM汎用大型コンピュータ・メーカーでプログラマーとして勤めた後、1977年に友人2名とオラクル社を設立、2年後の79年に世界初のリレーショナル・データベース・ソフトを開発した。
オラクルは、コンピューター・ダウンサイジングの波に乗って急成長し、1986年にIPO、20年足らずで売上高35億ドル、ソフトウェアの世界ではマイクロソフトに次ぐ巨大企業に成長した。データベースという、いわば情報産業の「からめ手」からマーケットを攻略し、パソコンから大型コンピューターまでどれでも動くデータベースのデファクトを築いた。現在、彼の年収は330万ドル、オラクルの23%の株式を保有しているから、それだけで総資産60億ドルを超えるビリオネアである。
エリソンは、1987年に超並列コンピューターのベンチャー、エヌ・キューブを買収、リレーショナル・データベースに続いて超並列コンピューターでもトップブランドを作り上げた。インターネットが爆発し始めると、彼にとってデファクトを狙った3番目の事業を起こした。ネットワーク・コンピューター(NC)である。エリソンは、1996年5月にオラクル社全額出資でネットワーク・コンピューター・インクを設立、ウィンテルに束縛されない500ドル・パソコンを目指している。常識破壊とリスクテイキングが彼の持論。"Timing is everything"、「情報通信の世界では、タイミングがすべて。何もしないことが一番大きなリスクだ。」という。
8.スティーブ・ジョブズ (42才): 「苦節10年の復活」
彼は現在41才、マイクロソフトのビル・ゲイツと同世代の元パソコン少年である。彼は高校卒業後、オレゴン州のリード・カレッジに通っていたという記録が残っているが、その後は転々としておりはっきりしない。アップル創業の話はあまりにも有名なサクセス・ストーリーである。1976年に設立した会社は 1980年にIPOし、たちまち彼はミリオネアになったが、当時彼は弱冠21才であった。
しかし、ジョブスは1985年に経営方針の対立から自分が雇った社長ジョン・スカリーにアップルを追い出されるはめになった。すぐにアップルの持株を売り払い、アップルの社員5名を引き連れ1985年9月にネクスト・コンピューターを設立した。ネクストは、オブジェクト指向技術のオペレーティング・システムを開発していたが、事業は思わしく進まず多額の累積赤字を計上していた。
彼は続いて1986年にルーカス・フィルムからコンピュータ・グラフィックス(CG)の開発会社ピクサーを買い取った。これも、なかなか思うようにいかず、彼が10年間で同社に投じた資金は累計で5000万ドル以上と言われている。しかし、95年のクリスマスに世界初の全編CGの映画"トイ・ストーリー”をディズニーを通じ世に送り出し、見事に花を咲かせた。トイ・ストーリーの封切りの直後に、ピクサーはNASDAQに株式を1株$22で公開され、その日のうちに49.50ドルの高値をつけた。3000万株を所有するジョブズは、再び10億ドルを超える資産家になったのである。
9.ジェリー・カプラン(45才) 「一度目は大失敗。二度目で成功。」
一回目の失敗から見事復活したもう一つの例が、オンセール社のCEOジェリー・カプランである。
彼の第一ラウンドは、ペン入力コンピューターで有名なGOコーポレーションである。彼はニューヨーク生まれ、ペンシルバニア大学で人工知能を専攻して博士号を取得、1979年にスタンフォード大学に移りコンピューター・サイエンス学科で研究員となっている。1985年から87年までロータスで主任技術者をしていたが、ペン入力コンピュターが次世代のPCになると確信し、ロータスをスピンアウトし87年8月GOコーポレーションを興した。この時点で組んだベンチャー・キャピタリストが前述のKPCBのジョン・ドーアである。GOは、会社設立時点の株式評価額が450万ドル、事業解散までの6年間に200人以上の従業員と7500万ドルもの外部資金を投じた、シリコンバレーでも鳴り物入りの大ベンチャーであった。
GOは、マイクロソフトとの対決、IBMやAT&Tとの提携など、大手を巻き込んだ開発競争に発展した。この経緯は彼の著書”スタート・アップ”でベストセラーにもなっている。しかし、製品の完成度や競争激化などの諸要因から、一度も製品をデビューさせることが出来ずに終わり、事業は91年から94年にかけてAT&Tに切り売りされた。
カプランは、この失敗の直後から第二ラウンドを開始している。彼が1994年7月に始めたオンセール社は、インターネット・コマースの一つで、同社のサイトの上に多種多様な商品の売り情報、買い情報を搭載し、売買成立の時点でフィーを徴収する仮想市場を運営している。同社は、今年4月にIPOを実施した。現在は四半期ベースで売上高1200万ドルで小幅ながら利益を計上、インターネット・ベンチャーにしてはめずらしく累積損失のない企業である。カプランの保有する同社の株式600万株は、IPOによって時価4200万ドル(7ドル/株で換算)となった。
(図表-4:第二ラウンドの起業家の略歴<ここをクリック>)
●舞台裏のプレーヤー
起業家の活躍だけではベンチャーを見たことにはならない。舞台裏には、彼等を支えるプロデューサーがいる。役回りは、ベンチャー・キャピタリストと提携企業(ベンチャーに10~40%の資本参加をするケースが多い)が担っている。
----(John Doerr, KPCB) ---
先の若手起業家のケースで述べよう。ネットスケープでは、KPCBのベンチャーキャピタリスト、ジョン・ドーアがその役を演じた。
ドーアは、サン、コンパックのような大成功案件を手がけた業界超一流のベンチャー・キャピタリストで、ジム・クラークとは彼がスタンフォード大で教えていた頃からの知り合いである。しかし、クラークはSGIの創業者であるから、ネットスケープの立ち上げ資金位は充分に持っている。クラークがドーアに依頼したのは、資金以外の"More Than Money"、つまり経営陣のスカウトや企業提携面でのサポートであった。ドーアは会社設立後半年の間にCEOや副社長8名を次々に集めている。もちろん、KPCBは援助する分、ネットスケープに投資している。現在KPCBが保有するネットスケープの株式は約900万株、時価にして3億5千万ドルにのぼる。
ヤフーの場合は、セコイア・キャピタルとソフトバンクがサポートした。創業者二人のプランに賛成したのが、セコイアのパートナー、マイク・モリッツである。彼はヤフーに2百万ドル投資しただけでなく、ヤフー設立後のCEOティム・クーグルをヘッドハントした。また、ソフトバンクは、ヤフー設立半年後の増資(95年11月)から提携先となった。ソフトバンクの孫正義社長は、セコイアを通じてヤフーを知り、接触したことから両者は急速に接近した。この増資によりソフトバンクはヤフーの株式5%を取得し(注:ソフトバンクはこの後も買い増しし、現在は同社株式の35%を保有する筆頭株主である)、ヤフーはジフ・デービス(注:当時ソフトバンクが買収した、米国のコンピュータ関連出版社)との提携、およびヤフー・ジャパンの設立という成果を得た。
(Michael Moritz、Sequoia Caoital)
他の起業家達にも同じようなサポーターがいる。マリンバは、KPCBが組成したJavaファンド(Java技術関連のベンチャーだけを専門に投資するベンチャー・ファンド。96年夏に1億ドルを集めて結成)の資金によって会社が設立されている。また、アマゾン・ドットコムには、KPCBが出資し現在340 万株(現在の株価18ドルで見れば時価6000万ドル)を所有する。GOで失敗したジェリー・カプランも、GOの出資者であったジョン・ドーアにセカンド・ラウンドでも支援を受けている。
●視点
マルチ・ラウンド型の人生
なぜあれだけアメリカで老若男女の起業家が輩出するかは、なるほどと思う論点はいろいろある。しかし、最も大事な点は、起業家が「経済システムをうまく利用して」自己実現に挑んでいるからではないか。
アメリカでも、70年代までは、やはりGMやIBMのようなブルーチップ(優良大企業)で「一社懸命」に生きることが良きサラリーマン像であった。しかし、現在、こうした大企業で平均的な働き方をしても、せいぜい年収10万ドルどまり、不景気になれば大企業の方からリストラ策が始まる。アメリカであってもベンチャーの方がリスクがはるかに高い。しかし、まくその会社がIPOできれば、普通のフタッフでもストックオプションで一挙に百万ドル位のキャピタルゲインが得られる。これは机上の論理ではなくて、そのような企業が米国に続出しているのだ。IPOの済んだ公開企業では、いくらストックオプションをもらえても株価が10倍になることは考えられない。となれば、ベンチャーで働くことを選ぶのも道理である。やはり、言葉は悪いが「IPOを目指して一儲けしようとする」パワーが、ベンチャーの源泉である。
しかも、アメリカの起業家は失敗してもやり直しがきく。むしろ彼らはやり直しを視野に入れたマルチ・ラウンド型の人生を送っている、というべきであろうか。カプランやジョブズは第一ラウンド失敗後の復活である。ジム・クラークは、シリコン・グラフィックスが第一ラウンドの成功、ネットスケープで2度目のホームラン、ヘルシオンで3度目のドジョウを狙う。彼らは、第1ラウンドでミリオネアになり、第2ラウンドでビリオネアになった。一生の間に2回成功できるということは、2回目にはその経験と信用と資金力とを十分に生かせるから、非常に有利である。
中身のあるネットワークとアライアンスが築けるか
こう述べていると、彼ら大立者と比べて日本の起業家は違いすぎると感じるかもしれない。実際そのとおりである。彼らは世界初の技術やビジネスを作った、あるいはデファクトを押さえた。それらに類似したケースは、日本の起業家ではきわめて稀であり、今後も簡単に出てくるとは思えない。
しかし、いくつか学ぶべきことがある。アメリカの起業家は、個人のネットワークを本当に大切にする。それが、ベンチャーの結成、ビジネスの発展のカギと思っている。ネットスケープにおけるクラークとアンドリーセンの邂逅が代表的な例である。加えて、起業家にとって重要な出会いの場として、スタンフォード、MIT、UCバークレーなどの大学がある。そこで学び研究するだけでなく、米国内や世界中からいろいろな人間が訪れ、様々な「一期一会」がネットワークに発展し、その仲間達が集まってベンチャーが生まれるケースがかなり多い。サン、SGIという名だたる大企業や、ヤフーやアイプロはそこから生まれた。
最近ではベンチャー関連のフォーラムや支援センターというハコは、米国より日本の方が活発に作られている。しかし、実際には、ベンチャーの外からの支援に終始しており、支援者がベンチャーに入り込んでリスクはとることはまだまだである。結果として、日本では官庁、大企業、金融機関というエスタブリッシュメントの組織として「上からの支援」が中心である。したがって、ベンチャーの経営者と「同じ目線で」経営を指導するケースはきわめて少なく、また支援するプレーヤーもなかなか顔や名前がみえないのである。
もう一つは、アライアンスをきわめてうまく使っていることだ。日本でアライアンス(企業連合)という言葉を耳にすることはまだ少ないが、米国では当たり前のビジネス用語になっている。実際、成功したベンチャーは大企業とのアライアンスがキーポイントになっている。ヤフーに出資したソフトバンク、アイプロに出資したニールセンのケースがそれであり、ネットスケープもシリコンバレーの名だたる大企業と組んだ。ベンチャーは、企業に資本参加を求め、場合によってはNDA(Non-Disclosure Agreement、機密保持契約)を結ぶ。一方、大企業側も、提携したベンチャーの成長によって自社の事業寄与だけでなく、投資資金からのキャピタルゲインの果実がある。外から「若手にベンチャーを起こさせる」というより、「ベンチャーと一緒に組む」ことが重要になっている。マイクロソフトですらアライアンスを戦略に組み入れ、事業開発チームがベンチャーを探し回っている(ベンチャーの多くは、巨人に飲み込まれることを恐れているようであるが。)
日本のベンチャー・ブームに乗っかって、ベンチャー育成環境や投融資の手段を積極化させるのは大変結構なことだが、ネットワーク、アライアンスという視点はまだまだ浸透していない。支援や提携を考える大企業サイドも、その多くはベンチャーと「一緒にやりましょう」というかけ声で終わっているのが実状ではなかろうか。大企業はそれでも良いかもしれないがベンチャーは違う。漠然とした提携で明確なメリットが得られないままだと会社が危なくなるし、大企業にノウハウを持ち逃げされかねない。
ネガティブな面ばかりを見てきたが、日本も大きく変わっている。この2年間における日本の起業家経済の動きは、過去20年の変化に匹敵するかもしれない。ベンチャー企業育成論のような、ベンチャーの外から、あるいは上からみた視点だけでなく、実際に大企業のトップ経営者や大学の先生方がベンチャーキャピタルやフォーラムを結成し、「自分自身の力で」支援組織に参加している。日本に、ジム・クラークやジョン・ドーアを期待するのは早すぎるかもしれないが、水面下では日本的なコーポレート・ベンチャー、大学スピンアウト・ベンチャーが組成される出会いが生まれつつあるようだ。 (了)
(97年6月12日、筆者記)